野中烏犀圓
佐賀市・材木町の「野中烏犀圓」は、寛永3年(1626)創業以来、生薬を販売してきた烏犀圓の本舗です
寛政8年(1796)に烏犀圓という生薬の製造許可を得て、その際に建てたのが現存する町家と伝わります。
店頭の看板には、佐賀藩の「杏葉紋」が刻まれています。
佐賀市・材木町の「野中烏犀圓」は、寛永3年(1626)創業以来、生薬を販売してきた烏犀圓の本舗です
寛政8年(1796)に烏犀圓という生薬の製造許可を得て、その際に建てたのが現存する町家と伝わります。
店頭の看板には、佐賀藩の「杏葉紋」が刻まれています。
大里宿の湊口跡からは、対岸の下関が見えます。かつて多くの旅人達がこの地から海峡を渡りました。
ここが長崎街道・最東端の地となります。
旧福田家は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅です。
佐賀市水ヶ江を東西に走る「通り小路」に北面して屋敷を構えています。藩政期には、佐賀城の東に広がる武家屋敷地に含まれ、福田家の敷地も武家屋敷の敷地を継承したと云われます。
旧牛島家は、かつて佐賀市朝日町(旧下今宿町)にありました。江戸期には、問屋を営む旧下今宿町の咾役(おとなやく)を務めていた足軽の高楊伊助が居住していました。
建てられたのは18世紀初頭と推定され、佐賀市内では最も古い町屋様式の建物です。
平成5年の県道拡張により現地での保存ができなくなり、所有者より佐賀市が譲り受けこの柳町に復元されました。
旧三省銀行は、明治15年(1882年)2月、佐賀藩士・柿久栄次を頭取として設立されました。
当初は銀行類似業務を行う三省社として創設され、佐賀市柳町北側に店舗を構えました。
明治18年には、正式の銀行となり三省銀行と改められましたが
明治26年に廃業するに至っています。
「第36回ふるさと佐賀学講座」 を開催しました
今回の講演テーマは、「郷土の偉人シリーズ・伊能忠敬」です
佐賀市乾亨院には、明治7年の「佐賀の乱」で戦士した官軍・熊本鎮台第十一大隊の兵士達の墓が祀ってあります。
りっぱな墓石であり、ある意味、当時の官軍の威光が感じられます
「佐賀の七賢人」ですが、全員をサラリと呼べるには大人でも練習が必要でしょう。
そこで簡単な覚え方があります。勧興小学校では、授業で次のようにして覚えています。
「おおしそ さなえ」
お・・・大隈重信
お・・・大木喬任
し・・・島 義勇
そ・・・副島種臣
さ・・・佐野常民
な・・・鍋島直正
え・・・江藤新平
佐賀市金立町黒土原のひっそりとした木立の中に、「葉隠発祥の地」があります。
そこには、「常朝先生垂訓碑」と刻まれた石碑があり、葉隠精神を静かに伝えているようです。
この碑は、昭和10年(1935年)に建立され、碑文は、武富時敏が書したものです。